空の上から(レバノンでは地上でも!)やりたい放題

 最近は自分のライブの事以外は何も書かなかったし、今でもそれが一番書きたい事だが(実際この一ヶ月も濃かった!)、今日は久々に戦争の事を書く。もはや、黙ってはおれんよ…。悲しみを分かち合う事さえ絶望的にむずかしいが、俺らはここから始めるしかない。

 パレスチナやレバノンがめちゃくちゃにされてるが、日本での報道のされなさ&無視黙殺は、こりゃ何なんだ!? “暴力の応酬”とか“宗教対立”など、いつまで間抜けな事を言うてるんや?? 恐ろしく一方的な虐殺であり、国家テロ。イスラエルという国家は、パレスチナ人を殺し続ける事で、永久に戦争を続けたいのだとしか思えない。今、それの悪質コピーをアフガンとイラクでやってるのがアメリカだろう。
 少なくともパレスチナに関しては、このように個人的に現地のニュースを翻訳し続ける人がいるので、みなさん、ぜひぜひ見てほしい。パレスチナ・ナビ
 
 俺は2回パレスチナに行った事がある。1回目は1993年。サーブリーンというエルサレムのバンドが来日したとき、京都の西部講堂公演で一緒に動いた縁で、彼らに再会しに行った。オスロ合意の直後で、曲がりなりにも和平ムードというか、矛盾や対立や疑問を抱えながらも、出会った人たちは「希望」を語っていたように思う。
 2度目は2000年秋。中国~スペインを5ヶ月かけて旅行した途中に。その時の旅日記があるので、興味ある人は見てください。俺がこの目で見たパレスチナ
jeep
 この時、7年ぶりに画家のムハンマドと再会したり、占領に反対する魅力的なイスラエル人女性活動家ネタ・ゴランに誘われて、軍が包囲するパレスチナの美しい村に行ったりした。「人間の盾」みたいな感じで。
 その頃はまだ、イスラエル軍といえども外国人の目を気にするハズだという幻想(?)があった。衝突が激化し始めた時期で、石を投げる子供に軍が水平撃ちするのも目の当たりにしたし、ミサイル直撃を受けた民家も見た。それでも今に比べたら「平和だった」といえたかもしれない。イスラエル軍の“暗殺作戦”が、まだ、非道でめちゃくちゃな作戦と感じられたから。
 今、イスラエルが「撤退」したはずのガザで、海水浴場や小学校や病院や市場までもが爆撃され、パレスチナ人は“コンスタントに確実に”殺され続けていて、それがニュースにもならん。
 ガザには行った事がないが、ヨルダン川西岸や、エルサレムには友達もいる。93年に初めてパレスチナを訪れた時、西岸の都市ナブルスでシャイな画家ムハンマドの家に世話になった。その時1歳の赤ん坊だったラカンは、2000年に再訪した時、英語もしゃべる小学生のお兄ちゃんになっていた。今、無事だったら12~13歳の少年になっているはずだ。無事だったら!
 
 今週末から金沢~東京にソロでツアー行くんで、ただ今準備中。おそらく10分後には、パレスチナやレバノンの事などアタマから消えている。

7/29(土)金沢メロメロポッチ
7/30(日)新大久保トロージャン
7/31(月)早稲田 あかね
8/1(火)新宿ネイキッドロフト
詳細は→ ジェロニモレーベルのライブ情報をどうぞ。
せめて、「空の上からやりたい放題」は歌おうと思ってます!

野望など

 メキシコメキシコっていつまでも言うなとか言うな。

 行ったら何とかなるやろうと思って行ったら、思った以上に何とかなってしまってしまい(つまり、出会った人が次から次へと出演話を持ちかけてくれた)「こりゃあ、ええわ。メキシコやったら俺、音楽で食って行けるんちゃうか」などと安易に錯覚しつつ意気揚々とライブ会場に着くと、約束してたドラマーにすっぽかされたり、企画した男がトンズラしてたりして、ドわっはははは。

 しかしそのような、アウェイにおけるピンチも、いつもパンク連中が救ってくれた。路上ゲリラライブで声かけてくれたカルロス(3つのライブをお膳立てしてくれた後、風のように消えた)や、事あるごとに機材や対バンを手配してくれたメキシコ・パンク界のキーパーソンBambam、大阪城公園での野宿者排除を我が事のように心配してたチェ・ゲバラ講堂のJoaquin(ホアキン)、「お前の言いなり」が一番好きだと言うて出会って三日目には一緒にライブしたTichaたち(ちょっとビジュアル系)、自分の美大のパーティーで演奏させてくれてご馳走もしてくれたアレハンドロ(メタル・コアのギタリスト)と彼女のヴェロニカ、ドラマーじゃないのにジェロニモレーベル・メキシコ版のドラマーとしてガンガン仕事してくれた亜麻陳…。

 書き切れないぐらいの人に助けられてアホ一匹、メキシコで愉快に小暴れしてきたのだった。一ヶ月に渡る旅の間に行ったライブやらラジオ出演やらを全部MDに録音してて、それは総録音時間13時間近くに及び、その中から何とか一枚のCDに詰め込もうという作業に、ここ半月ほど没頭していたのだが、ようやくマスター音源が完成した。ぃやっほう! 名づけて”El Camino del Loco”(エル カミノ デル ロコ=アホの道)。異邦の地で一からロック演奏を実現する道のりを、無理やり62分に収録しました。ぃ~やっほう!!
 
 4月12日(水)、大阪は千日前のクラブウォーターにてライブやります。それまでに上記CDRを(ジャケ、解説文含めて)完成させる予定。ライブ詳細はジェロニモレーベルのホームページをどうぞ。
 
 メキシコで、ジェロニモレーベルの音楽と歌詞と演奏の全てが、かなり素直に受け入れられたので俺は大いに自信を持った。再び日本に於いても、演奏ならびに録音ならびに広報活動に邁進いたす事としよう、あくまでポジティブに前向きに。
 
 そして、もう一つのプロジェクトであるところのファルソス・ヒターノス(偽ジプシー)は、2年前から中断してるフルアルバムのレコーディングを再開する所存です。新メンバー(バイオリン奏者)も入ってくれたので、ライブも早いとこ再開したい。お楽しみに。

 上記のごとく、いろいろと軌道に乗せたいと真剣に思う今日この頃です。世の中どんどん酷くなるので、俺らはますます真剣かつ痛快に俺らの音楽を実現せねばなるまいよ。無駄にしてる時間はないのだ。あ、やってる事がそもそも無駄か。ひっひひひー。
 
 あと、今年は久々に山や渓流で遊びたい。アマゴやら岩魚やら根曲がりタケなどを、再び山で食いたいと切に思う。

 とか、まぁいろいろ。

メキシコ・シティー再び

 先週帰って来ました。出会いが出会いを呼んで次から次にライブが決まるっていう感じで、一ヶ月の間にフィエスタ(パーティー)や小さなバーでのソロ、路上一瞬ライブなども含めれば生演奏12本、インタビュー4本(ミニラジオ×2、インターネットラジオ×1、テレビ番組×1)受けて来た。特に、メキシコシティーのパンク連中には、いろんな形でお世話になった。
 全てのライブやインタビューはMDに録音してきたので、近々何らかの形にして発表する予定です。ライブの音質こそ悪いが、強力無比なドキュメンタリーCDができるはず。(2年半前のバルカン~スペインの旅を偽ジプシーのCDR“メセチナ地獄”に詰め込んだように)

 張り切って帰って来たわりには、見事にな~んもヤル気が起こらぬまま一週間たった。旅の間、読みにくいローマ字レポートにおつきあいくださった皆さん、お疲れさま。そして何より、2度にわたって漢字に直して転送してくれた市崎君どうもありがとう。

旅の最終ラウンドの報告の日本語版です。

2/27-28(サン・クリストバル・デ・ラス・カサス)
 ティチャたちと、ジェロニモレーベル・San Cristobal version のライブをやった後、二日ほどこの街に残った。バー・タジェーレスで出会ったハイデという綺麗なおねえさんに、ランチェロ(メキシコのトラディショナル)のいいCDを買うのに付き合ってもらう予定だったが、教えられた電話番号が間違いで連絡とれないままに終わった。残念。
 インディヘナのお土産を買ったり、周りの山を歩いたりしてのんびり過ごした。街を歩いてるとティチャ達とも出会い(何しろ小さな街なので知り合いにしょっちゅう会う)熱く再会を誓い合った。

3/1
 メキシコ・シティーに飛行機で戻る。やはりこの街はでかい!

3/2
 XS-grita-radioのパメラにコヨアカン地区を案内してもらう。朝からなんとなく体がだるかったが、トロツキー博物館などを見ているうち、体の力が抜けていく感じ…。長旅をしてると、疲れがたまって時々なる奴だ。パメラとわかれてホテルに戻ったころには熱も出てヘロヘロに。明日と明後日のライブ&フィエスタが、本気でヤバイんじゃないかと不安に襲われながら、一晩苦しんだ。

3/3 Esmeralda でのパーティー
 起きたら下痢も熱もおさまっていたが、相変わらず体に力がない感じ。2/14のパンク・ライブで知り合ったアレハンドロ(メタル・コアバンドをやってる)と恋人のヴェロニカに招待された美大キャンパスのパーティーに行く。
 あまちんと、友達のアランに交代でドラム叩いてもらう。まだ、モノを食ったり飲んだりするのが恐く、体力も戻ってないので一曲終わる度にノドが乾きまくる。しかし、学生達は喜んでくれたし、アンドレスという男からTVインタビューの話も来た。DJからクラブ出演の誘いも来たが、今回はもう、日にちが無い。
 その後、カコという兄ちゃんの家にみんなで移動して、どんちゃん騒ぎ。もうビールを飲んでも、腹に不安がない。これで明日の連チャンライブも大丈夫だろう。自分の体が信じられるというのは、ありがたいものだ!

3/4 Tianguis del Chopo(チアンギス・デル・チョポ) & Bar Arrabal
 怒涛の一日の始まり。まず午前中、Tianguis del Chopoへ。ここは、毎週土曜に開催される、メキシコシティー中のオルタナ系音楽が集まる青空市。メキシコに着いた三日目にここで路上ゲリラ演奏(2曲)した時にカルロスという男と出会い、いろんなライブがドドドっと決まったのだった。

 メトロのブエナ・ビスタ駅から地上に出たところで「ヘロニモ!(Geronimoのスペイン語読み)」と声をかけられた。なんと!3週間前にココで出会い、チェ・ゲバラ講堂などのライブをお膳立てした後、全てを丸投げして姿を消したカルロスが、そこにいた。彼には「このやろう!決めるだけ決めて、後はほったらかしにしやがって!」と文句の一つも言いたかったのに、実際に再会して見ると嬉しさだけがあった。最初と最後をバシッと締める男・カルロス。

 チアンギス・デル・チョポの屋台通りを抜けてステージにたどり着くと、主催者のエンリケ自らが、今日のライブのプログラムを配っている。店を出す連中、見に来る連中、主催者、それに出演者と、皆で作ってるという手作り感が気持ちいい。

 エンリケが「日本から来たヒデヨのプロジェクト、ジェロニモレーベル。皆さん拍手を」と紹介してくれて、いっぱいの客の前で「陳腐」「死ねない男」「カモ」「サメ」「罰当たり幸福男」「お前の言いなり」を演奏。やたら喉は渇くが、野外ステージが気持ちいい! 終わったらすぐ「CDいくらだ?」と声もかかり、物々交換したり売ったり(ただし、かなりのディスカウントを余儀なくされる)してるうち、日本から持ってきたCDもほとんどなくなった。
 ここでは、交流や情報交換に、皆がすごく情熱的だ。今回はもうすぐ帰るんだと言うと「じゃあ次に来るときは連絡くれ。ライブ一緒にやろう」といろんな人が誘ってくれた。(今回の旅を通して)特にパンク・ハードコア連中とはかなり親しくなった。
 
 ライブの後、炎天下でいろんな奴と交流してるとさすがにヘトヘトになった。そのままあまちんと、夜にバー・アラバルでやるフィエスタ(友達数人の誕生パーティー兼俺のお別れパーティー)の準備に向かう。ここでアクシデント発生!ドラムを借りるはずだった友人とのすれ違いで、急きょ借りれない事に…
 アレハンドロやバンバン(Bambam)に電話をかけまくり、なんとかバンバンが遠い家から自分のドラムを運んでくれる事になり一件落着。まったく、ステージに立つ直前まで、何が起こるかわからん…
 
 さて、フィエスタが始まる予定の8時になってもお客は誰ひとり来ない。10時半ごろになって、これまでの静寂がウソのように、急に店の中は人でいっぱいになった。友達のメヒカーナ(メキシコ人女子)やハポネサ(日本人女子)たちも、皆気合いを入れて着飾っている。
 最初は俺が2/14のライブで気に入って呼んだ”Pobreza Extrema(極貧)”という、ハードコア・バンド。こいつら音がカッコいいだけじゃなく歌が誠実な感じがいい。すごくいい奴らだし。その後、“独り偽ジプシー”の俺に続いてアランのアフリカン・バンドMatam。
 ここでパーティーのテンションは最高潮に達するが、演奏が長すぎて(夜中の2時を回り)バーのマスター自らが時間切れを宣告。ジェロニモレーベルは3曲しかできなかったし、張り切って来てくれたMassacre68のAknezたちとのセッションも実現できなかったのが、すこぶる残念。

 だが、楽しいフィエスタだった。友達の家に移動するあまちん達と別れ、帰って抜け殻のように寝た。

3/5~3/7
 あらためて観光に出かけるほどの元気もなく、あまり人と会う事もなくひっそり過ごした。せっかくメキシコに来たんだからと、ランチェロなどトラディショナルのCDを買ったり、泥棒市で有名なTepitoの街をアテもなく歩き回って道に迷ったり…。

 唯一、用事らしい事といえば、アンドレスたちからTV番組の短い取材を受けた。スタジオでのインタビューの後、アンドレスの希望によりメトロ(地下鉄)の中で「サメ」を生演奏。ライブよりも、こっちのほうがずっと緊張する(笑)。

 7日の夜は友達がささやかな飲み会で送ってくれた。

3/8
 早朝、暗いうちに空港着。今回の旅はメキシコ・シティーとサンクリストバルにほとんど定住してたので、今日のフライトはメキシコの景色をたっぷり見る唯一のチャンス。USAに近づくにつれて、岩山や大峡谷や砂漠が西部劇チックに拡がっていた。

 サンフランシスコでの乗り換え時、何の緊張感もなくザックに放り込んでいた、サパティスタ民族解放戦線FZLN(参考までに関西の連帯グループのサイト)のパンフや、ハードコアパンク連中のファンジン(ひと目で反ブッシュ、反戦とわかる)が税関に引っかかった。頭の固そうな税関職員、冷ややかなあざけりを含んだ笑顔でいわく「君は、コミュニストか?あるいはアナーキストなのか?」「あ~、これね。メキシコ行ったら、大学キャンパスとかパンクのライブとかで普通に手に入るけどね」
 彼はその“証拠物件”を手に、職員仲間とひそひそ談笑している。まさか入国拒否まではされないだろうが、あ~…乗り継ぎに過ぎないとは言え「テロと闘うUSA」を通るっちゅうことを、すっかり甘く見てた…。
 結局は、10分か15分ほど足止め食らって彼らの話のネタにされただけで、「さっさと日本に帰れよ」と言いながら放り投げるように返された。権力をカサに着た連中から味あわされる、久々の不快感だった。

 今回の件がなくても、USA乗り継ぎは、今後はできれば避けたいと思う。なんとなれば、乗り継ぎに過ぎないのに機内預かりの荷物をいちいち受け取って、また預けなおすというのはウルトラ面倒だし、全員が靴まで脱がされる荷物チェックも屈辱的だ。
 “テロ対策”の愚鈍なる風景に、延々とつき合わされるのはかなわん…。関空行きの便に乗り込む直前まで、リラックスする暇などなかった。
 
 アラスカ上空から見下ろした、果てしなく拡がる流氷は感動的な眺めだった。